2009年 01月 23日
湯川秀樹日記 |
1月23日は湯川秀樹先生の誕生日です。2006年には湯川・朝永生誕100年記念行事が全国各地で行われました。湯川先生は1907年生まれで、1906年生まれの朝永振一郎先生とは京都大学の同級生でした。
湯川先生は日記や研究ノートを残されており、その大部分は未整理です。
アルバート・アインシュタインも沢山の書簡やノートを残していますが、これについてはカリフォルニア工科大学(Caltech)にアインシュタイン・ペーパープロジェクトというものがあって、書類を整理・分析して出版しています。第10巻(1920年の5月から12月までの書類)が出版されたところで、最終的には30巻の出版を予定しているそうです。
湯川先生については、生誕100年を機に、ノーベル賞授賞対象となった中間子論誕生の年である1934年の日記が出版されました。私は、雑誌『数学セミナー』の2008年6月号にこの日記の書評を書きました。『数学セミナー』の編集部から許可を頂いて、以下に転載します。
素粒子論ことはじめ
湯川秀樹は僕の少年時代のヒーローだった。小学校時代に読んだ伝記には、核力を伝達する中間子の存在を真夜中に思いついたとある。思考の力で、自然界の最も深くゆるぎない真実に到達したという話に感動した。スウェーデン科学アカデミー会長はノーベル賞授賞式で、「あなたの頭脳は実験室であり、ペンと紙がその実験器具である」と賞賛している。
しかし、この発見は一夜の思索でもたらされたものではなかった。量子力学の発見に遅れてきた湯川は、大学を卒業する1929年までに研究テーマを「相対論的な量子論」と「原子核の理解」の2つに定めている。そして、1932年にチャドウィックが中性子を発見し、また加速器による原子核の人工的破壊が可能になると、原子核の研究が一気に勢いづく。この後の2年間、湯川は核力の本質の解明に全力を注ぐことになる。
湯川生誕百年に当たる昨年、ご遺族が1934年(昭和9年)の日記の公開を決断され、小沼通二の努力によって今回の出版となった。1月1日「我等の前には底知れぬ深淵が口を開いている。我等は大胆に沈着にその奥を探らねばならぬ」。湯川はこの時すでに、核力を説明するには、それを媒介する何らかの粒子が必要だと考えていた。しかし、新しい素粒子を予言する機はまだ熟していない。
5月6日「Fermi Neutrinoを読む」。β崩壊のフェルミ理論である。湯川はあせった。この理論によって、核力が、電子とニュートリノのやりとりとして説明されてしまうのではないか。5月31日「四面楚歌、奮起せよ」。しかし、フェルミ理論で計算される力は核力に比べて弱すぎることがわかった。自伝『旅人』には「この否定的な結果が(中略)私の目を開かせた」とある。もはや迷いはない。「既知の素粒子の中に、さがし求めることはやめよう。」
次男の出生届を出した翌日の10月9日「γ’rayについて考へる」。『旅人』と照らし合わせると、これが中間子論誕生の日であろう。γとは電磁気力を伝える光子のことなので、γ’に、光子と似た、しかし新しい素粒子であるとの意味を込めたのだと思う。湯川の理論は、中間子を予言するとともに、量子場の理論が電磁気力(γ)のみならず核力(γ')にも当てはまる普遍的言語であることを示し、その後の素粒子論の進歩に決定的な影響を与えた。この日記には、勇気と才能で原子核の深淵に切り込み、素粒子論のパラダイムを打ち立てる若い力が溢れている。
朝永振一郎の『滞独日記』が言葉を丁寧に選んで書かれているのに対し、湯川の日記は毎日数行の走り書きである。しかし、そこから湯川の生活が浮かび上がってくる。澄子と結婚して阪神間に引っ越した湯川は、その活気ある土地柄を楽しんでいた。家族への細やかな愛情が見られるのもうれしい。中間子論を発見した数日後には、大学で坂田昌一とγ’について議論する前に、阪急デパートに寄って一歳半の長男のために靴を買う。また、会合で大阪ホテルに行ったときには「こゝは思ひ出の場所」と書いている。3年前に澄子と見合いをしていたのである。しかし、このような中産階級の家庭の幸福にも大戦の影がさす。5月7日「英国、日本品輸入制限を企つ」。前年に日本は国際連盟から脱退している。
この日記は中間子論発見の経緯に光を当てる第一級の科学史資料である。このほかにも、湯川は多くの日記や研究日誌を残している。未発表の1931年の日記には興味深い長文の考察があるという。今回の日記の出版を機に、これらの貴重な史料が調査・公開されることを望む。
湯川先生は日記や研究ノートを残されており、その大部分は未整理です。

湯川先生については、生誕100年を機に、ノーベル賞授賞対象となった中間子論誕生の年である1934年の日記が出版されました。私は、雑誌『数学セミナー』の2008年6月号にこの日記の書評を書きました。『数学セミナー』の編集部から許可を頂いて、以下に転載します。
素粒子論ことはじめ
湯川秀樹は僕の少年時代のヒーローだった。小学校時代に読んだ伝記には、核力を伝達する中間子の存在を真夜中に思いついたとある。思考の力で、自然界の最も深くゆるぎない真実に到達したという話に感動した。スウェーデン科学アカデミー会長はノーベル賞授賞式で、「あなたの頭脳は実験室であり、ペンと紙がその実験器具である」と賞賛している。
しかし、この発見は一夜の思索でもたらされたものではなかった。量子力学の発見に遅れてきた湯川は、大学を卒業する1929年までに研究テーマを「相対論的な量子論」と「原子核の理解」の2つに定めている。そして、1932年にチャドウィックが中性子を発見し、また加速器による原子核の人工的破壊が可能になると、原子核の研究が一気に勢いづく。この後の2年間、湯川は核力の本質の解明に全力を注ぐことになる。
湯川生誕百年に当たる昨年、ご遺族が1934年(昭和9年)の日記の公開を決断され、小沼通二の努力によって今回の出版となった。1月1日「我等の前には底知れぬ深淵が口を開いている。我等は大胆に沈着にその奥を探らねばならぬ」。湯川はこの時すでに、核力を説明するには、それを媒介する何らかの粒子が必要だと考えていた。しかし、新しい素粒子を予言する機はまだ熟していない。
5月6日「Fermi Neutrinoを読む」。β崩壊のフェルミ理論である。湯川はあせった。この理論によって、核力が、電子とニュートリノのやりとりとして説明されてしまうのではないか。5月31日「四面楚歌、奮起せよ」。しかし、フェルミ理論で計算される力は核力に比べて弱すぎることがわかった。自伝『旅人』には「この否定的な結果が(中略)私の目を開かせた」とある。もはや迷いはない。「既知の素粒子の中に、さがし求めることはやめよう。」
次男の出生届を出した翌日の10月9日「γ’rayについて考へる」。『旅人』と照らし合わせると、これが中間子論誕生の日であろう。γとは電磁気力を伝える光子のことなので、γ’に、光子と似た、しかし新しい素粒子であるとの意味を込めたのだと思う。湯川の理論は、中間子を予言するとともに、量子場の理論が電磁気力(γ)のみならず核力(γ')にも当てはまる普遍的言語であることを示し、その後の素粒子論の進歩に決定的な影響を与えた。この日記には、勇気と才能で原子核の深淵に切り込み、素粒子論のパラダイムを打ち立てる若い力が溢れている。
朝永振一郎の『滞独日記』が言葉を丁寧に選んで書かれているのに対し、湯川の日記は毎日数行の走り書きである。しかし、そこから湯川の生活が浮かび上がってくる。澄子と結婚して阪神間に引っ越した湯川は、その活気ある土地柄を楽しんでいた。家族への細やかな愛情が見られるのもうれしい。中間子論を発見した数日後には、大学で坂田昌一とγ’について議論する前に、阪急デパートに寄って一歳半の長男のために靴を買う。また、会合で大阪ホテルに行ったときには「こゝは思ひ出の場所」と書いている。3年前に澄子と見合いをしていたのである。しかし、このような中産階級の家庭の幸福にも大戦の影がさす。5月7日「英国、日本品輸入制限を企つ」。前年に日本は国際連盟から脱退している。
この日記は中間子論発見の経緯に光を当てる第一級の科学史資料である。このほかにも、湯川は多くの日記や研究日誌を残している。未発表の1931年の日記には興味深い長文の考察があるという。今回の日記の出版を機に、これらの貴重な史料が調査・公開されることを望む。
by planckscale
| 2009-01-23 00:00
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