2013年 09月 18日
日米大学の比較 |
8月1日から朝日新聞のWEBRONZAの執筆陣に参加して、いくつか記事を書きました。朝日新聞社からのご依頼に、「3週目以降は、ご自身のブログへの掲載や著作物としての刊行を朝日新聞社は一切妨げません」とありましたので、最初の記事を公開します。
WEBRONZA記事のタイトルである「日米の大学の圧倒的な差はどこから来るのか」のところをクリックしていただくと開きます。タイトルは朝日新聞の編集委員の方がつけて下さいました。
日米の大学の圧倒的な差はどこから来るのか
今月からWEBRONZAの執筆陣に加えていただいたので、自己紹介もかねて、日米の大学の比較について書いてみる。もちろん、2000字程度では語りきれる話題ではないので、今回はほんのアペリティフである。
私は1994年にカリフォルニア大学バークレイ校の教授になり、2000年からはカリフォルニア工科大学に移籍したので、米国を教鞭を執って20年近くになる。米国は製造業では30-40年前に日本の挑戦を受け、ハイテク産業の地位も必ずしも安泰ではないが、高等教育では現在も圧倒的な国際競争力を持っている。英国の教育専門誌『タイムズ・ハイヤー・エデュケーション』が昨年10月に発表した世界大学ランキングでは、ベストテンの内の7校が米国の大学であった(ちなみに、私の所属するカリフォルニア工科大学は1位、東京大学は27位であった)。英語が公用語になりつつある世界において、英語圏の大学が有利であることは事実である。しかし、米国の大学の優位の理由は言語のおかげだけではないと思う。
私の経験は、日本では東京大学と京都大学、米国では上記の大学のほかには、ハーバード大学、プリンストン大学とシカゴ大学という研究大学に限られていることをお断りしておく。これらの大学にあって私が特に強い印象を受けたのは、米国の大学生のほうが、平均的には、より熱心に勉強をしているということである。それはなぜであろうか。
ひとつ明らかなことは、大学で勉強することに対する社会のインセンティブが、日米で大きく異なることである。日本では、就職のときに大学での成績はあまり重視されない。これは民間だけのことではなく、上級国家公務員試験などでも大学での成績は考慮しないそうである。
これに対し米国では、大学の成績がその後の就職や進学(医科や法科大学院、ビジネススクール、研究大学院など)に大きく影響するので、学生はじっくり勉強をしてよい成績を取ることに真剣である。
これは、社会全体の高等教育への期待の違いを表しているように思える。日本では、大学で学生が学ぶことが期待されていない。そして、日本の大学でまじめに勉強してこなかった学生は、高校卒業時の未熟な思考法のまま、若干の技術的知識を身につけただけで社会に出ることになる。
古代ギリシャ・ローマに源流を持ち、中世のヨーロッパで育まれた大学教育の根幹は「リベラル・アーツ」とされる。このリベラルとは自由、リベラル・アーツとは自由人のための教養という意味である。古代ローマにおいては、奴隷ではなく、自らの意思で運命を切り開いていくことが許される自由人(市民)のための学問であった。社会の中で指導的役割を果たすものの持つべき要件の一つは、想定外の問題に直面したときに、自分の頭で考えて解決する能力である。大学とはこのような能力を鍛える場であるという見方が、米国の社会の中では定着しているように思う。
シェークスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』において、キャシアスはブルータスを説得するために、「人には自らの運命の主人となるときがある」と語りかける。この「自らの運命の主人となる」ことこそ、米国の一般市民の理想であり希望である。そして、家柄や財産、さらには生まれつきの能力にさえ制限されずに、運命の主人になるために必要なのは、高等教育である。米国の社会が、大学の教育に高い期待を持つのもそのためである。
これに対して、日本社会が大学に期待している最も大きな役割は、高校卒業時の能力による選別であるように見える。高校卒業時の試験は正解があり解けることがわかっている問題をできるだけ速く解く能力を測るものであり、「想定外の問題に直面したときに、自分の頭で考えて解決する能力」とは関係がない。
このような日米の違いがどのような歴史的背景から生まれたのかは、私にはわからない。しかし、社会の指導的立場にあるはずの人が、回想録などで、大学生のときにクラブ活動に打ち込んで全く勉強しなかったことを得意げに語るのを読むと、大学教育に対するシニカルな態度に暗然とする。社会に期待されていない大学の教育が、国際競争力を持てないのは当然である。自分で考える能力を伸ばすべき4年間に、大学という資源を有効に使い、社会に貢献できる自由人を育成する方法を考え直すべきではないか。
WEBRONZA記事のタイトルである「日米の大学の圧倒的な差はどこから来るのか」のところをクリックしていただくと開きます。タイトルは朝日新聞の編集委員の方がつけて下さいました。
日米の大学の圧倒的な差はどこから来るのか
今月からWEBRONZAの執筆陣に加えていただいたので、自己紹介もかねて、日米の大学の比較について書いてみる。もちろん、2000字程度では語りきれる話題ではないので、今回はほんのアペリティフである。
私は1994年にカリフォルニア大学バークレイ校の教授になり、2000年からはカリフォルニア工科大学に移籍したので、米国を教鞭を執って20年近くになる。米国は製造業では30-40年前に日本の挑戦を受け、ハイテク産業の地位も必ずしも安泰ではないが、高等教育では現在も圧倒的な国際競争力を持っている。英国の教育専門誌『タイムズ・ハイヤー・エデュケーション』が昨年10月に発表した世界大学ランキングでは、ベストテンの内の7校が米国の大学であった(ちなみに、私の所属するカリフォルニア工科大学は1位、東京大学は27位であった)。英語が公用語になりつつある世界において、英語圏の大学が有利であることは事実である。しかし、米国の大学の優位の理由は言語のおかげだけではないと思う。
私の経験は、日本では東京大学と京都大学、米国では上記の大学のほかには、ハーバード大学、プリンストン大学とシカゴ大学という研究大学に限られていることをお断りしておく。これらの大学にあって私が特に強い印象を受けたのは、米国の大学生のほうが、平均的には、より熱心に勉強をしているということである。それはなぜであろうか。
ひとつ明らかなことは、大学で勉強することに対する社会のインセンティブが、日米で大きく異なることである。日本では、就職のときに大学での成績はあまり重視されない。これは民間だけのことではなく、上級国家公務員試験などでも大学での成績は考慮しないそうである。
これに対し米国では、大学の成績がその後の就職や進学(医科や法科大学院、ビジネススクール、研究大学院など)に大きく影響するので、学生はじっくり勉強をしてよい成績を取ることに真剣である。
これは、社会全体の高等教育への期待の違いを表しているように思える。日本では、大学で学生が学ぶことが期待されていない。そして、日本の大学でまじめに勉強してこなかった学生は、高校卒業時の未熟な思考法のまま、若干の技術的知識を身につけただけで社会に出ることになる。
古代ギリシャ・ローマに源流を持ち、中世のヨーロッパで育まれた大学教育の根幹は「リベラル・アーツ」とされる。このリベラルとは自由、リベラル・アーツとは自由人のための教養という意味である。古代ローマにおいては、奴隷ではなく、自らの意思で運命を切り開いていくことが許される自由人(市民)のための学問であった。社会の中で指導的役割を果たすものの持つべき要件の一つは、想定外の問題に直面したときに、自分の頭で考えて解決する能力である。大学とはこのような能力を鍛える場であるという見方が、米国の社会の中では定着しているように思う。
シェークスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』において、キャシアスはブルータスを説得するために、「人には自らの運命の主人となるときがある」と語りかける。この「自らの運命の主人となる」ことこそ、米国の一般市民の理想であり希望である。そして、家柄や財産、さらには生まれつきの能力にさえ制限されずに、運命の主人になるために必要なのは、高等教育である。米国の社会が、大学の教育に高い期待を持つのもそのためである。
これに対して、日本社会が大学に期待している最も大きな役割は、高校卒業時の能力による選別であるように見える。高校卒業時の試験は正解があり解けることがわかっている問題をできるだけ速く解く能力を測るものであり、「想定外の問題に直面したときに、自分の頭で考えて解決する能力」とは関係がない。
このような日米の違いがどのような歴史的背景から生まれたのかは、私にはわからない。しかし、社会の指導的立場にあるはずの人が、回想録などで、大学生のときにクラブ活動に打ち込んで全く勉強しなかったことを得意げに語るのを読むと、大学教育に対するシニカルな態度に暗然とする。社会に期待されていない大学の教育が、国際競争力を持てないのは当然である。自分で考える能力を伸ばすべき4年間に、大学という資源を有効に使い、社会に貢献できる自由人を育成する方法を考え直すべきではないか。
by planckscale
| 2013-09-18 09:02









