「科学の方法」の発見 |
@PlanckScale ややこしいのですが、ワインバーグに厳しい書評を書いたシェイピン自身は社会構成主義者ですが、彼のコメントの内容はいわゆる「ウィッグ史観」批判で、社会構成主義以前からある考え方です。 http://t.co/V2fTzXfEM5
— 伊勢田哲治 (@tiseda) 2015, 4月 6
また、学習院大学の理論物理学者の田崎晴明さんから、大栗さんの記事しか読んでいないのですが、「現代から見た『進歩』を切り口にした歴史記述への批判」から「社会構成主義的科学観への批判」に移るのはいささか唐突に感じました。
@tiseda @PlanckScale
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2015, 4月 6
とのご指摘を受けました。また、前回のブログ記事に対し、「adam takahashi」さんからコメントをいただき、
科学理論が客観的な存在であるということでシェイピンの立場を批判することから、第二点の「現在の基準で過去を裁いて良い」も主張できるのか
というご指摘を受けました。ウォールストリート・ジャーナル紙の書評で、ワインバーグさんの本を批判しているシェイピンさんは、「科学者が発見したと称する自然界の法則は社会的構築物にすぎず、そこには社会的/文化的な制限を越えた客観的な意味はない」という社会構成主義者で、この点についてワインバーグさんと論争をしています。ワインバーグさんは、今回の本の山場となる第4章の最初で、17世紀の「科学革命などというものはなかった」というシェイピンさんを批判しています。
そこで、WEBRONZAの記事では、「この論争の背景には、20世紀の後半に流行したポストモダン哲学がある」として、科学構成主義への批判を書きました。
しかし、伊勢田さん、田崎さん、「adam takahashi」さんがご指摘のように、科学史において「現在の基準で過去を裁くこと」を擁護するには、この議論では不十分です。歴史を、進歩を担ったものと、それに抵抗したものに分けて、「現在の基準で」前者を肯定し後者を非難することを、「ウィッグ史観」といいます。社会構成主義はウィッグ史観を否定します。しかし、逆は真ではありません。
この点について、伊勢田さんは、
@PlanckScale なぜこだわるのかちょっとだけ説明します。シェイピンら相対主義的な科学論者が1980年代に出てきたとき、まっさきに批判したのは科学史家たちでした。しかし、その彼らにとっても反ウィッグ主義は当然の前提でした。一緒にされると大変悲しいのです。
— 伊勢田哲治 (@tiseda) 2015, 4月 6
と書かれています。これは、まったくご指摘の通りで、社会構成主義の批判だけでは、ウィッグ史観の擁護としては不十分でした。
科学史全般についてウィッグ史観を使うのは適切でないという主張には同意します。たとえば、田崎さんが、
たとえば熱素説は誤りだが、当時の限定された実験結果とそれなりに整合していただけでなく、精緻な理論として整備され、カルノー理論の基盤とさえなった。ワインバーグがそういった「誤った科学」にどれくらいフェアかが気になるところです(注文した)。
@tiseda @PlanckScale
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2015, 4月 6
また、「adam takahashi」さんが、ケプラーは占星術師と仕事をしたり、特有な神学的な立場のようなものもありましたから、彼がなぜあのような仕事をしたのか、どのような経緯で或る法則を考えるにいたったのかといったことについて、21世紀の物理学者の「現在の基準」で眺めるならば、ケプラー自身のアイディアや動機を歪めて捉えることになるはずです
と書かれているのには、私も同感です。田崎さんや、「adam takahashi」さんの例にあるように、「ウィッグ史観」が適切でない理由のひとつは、過去の人が、その当時の情報では最良の判断をしたとしても、その人にコントロールできない偶然の要素によって、その結果が左右されることが多いからだと思います。この点について、田崎さんは、
ホイッグ史観が話題になったけれど、それよりさらに安直な「『偉い人』は万事について先を見越した『正しい』ビジョンを持っている」という考えをぼくは「大河ドラマ的史観」と呼んでいる。
レベルの低い歴史マンガとか、科学者の書くいい加減な科学史にけっこう見られるよね。
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2015, 4月 6
もちろん、ぼく自身は、
(1) 実際の混迷した歴史の中では、どんな偉大な人でも混乱して誤りを犯すものだ、
(2) そもそも、「正しいビジョン」というのも、多くの場合には、単に今の時代で支配的な価値観に過ぎず、普遍的なものとは言えない
と考えています。
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2015, 4月 6
と書かれていて、これも全くその通りだと思います。これは、今回のWEBRONZAの記事の後半のテーマでもある、「道徳的な運」の問題とも関係があります。
ただし、WEBRONZAの記事にも書きましたが、ワインバーグの今回の本は、個々の「科学的事実」の発見ではなく、「科学的方法」の発見に重点を置いていて、私は科学的方法の発見については、ウィッグ史観を当てはめることは適切だと思います。
個々の「科学的事実」の発見については、それがその後の科学の発展によって否定されたからといって、批判をするのは必ずしも適切ではないでしょう。たとえば、田崎さんのご指摘のように、「熱素説」は後に否定されましたが、当時の状況では熱現象を説明する理論であったようです。
これに対し、科学的方法については、16世紀から17世紀の、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンの時代に、明確な変化があったと思います。この「方法の発見」によって、私たちの世界の理解は大きく進歩した。ワインバーグさんの本を読むと、現在の私たちが当たり前と思っている科学の方法が、自然の仕組みを解明するために有効であることが理解されるためには、長い時間がかかったことがわかります。
この科学の方法の発見の歴史を理解するために、古代ギリシアから17世紀までの人々の自然の理解の仕方に「何が欠けていたのか」を明らかにするというのが、ワインバーグさんの本の目的だったのだと思います。

