朝日新聞の「論座」に掲載していただいた私の記事「コロナが基礎科学にもたらす変革」の後編です。掲載されて半年ほどたつので、その後の経過を反映して編集したものを転載します。
この記事の副題は
「民主化とバーチャル交流の拡大が進むなか、
日本の足を引っ張る著作権法制」
この後編では、この副題の意味を説明します。
しかし残念なことに、日本の大学や研究所はこのような世界的な動きに完全に乗り遅れています。日本は著作権の保護が手厚いので、講演ビデオを公開するためには、使われている図版やビデオの著作権を丁寧に確認し、場合によっては使用許可の手続きが必要になります。Kavli IPMU の研究者の成果を発信しようと、著作権処理の委託業務の見積もりを取ったら、30分のビデオで約100万円もかかることがわかりました。これではとても続けられません。
これに対し、米国では著作物のフェアユース(公正な目的であれば許可を得ずに利用できること)が判例で確立していて、学術交流のための著作物の使用は一定の枠内で許されています。私が世界各国で講演をしてきた経験では、著作権のために講演ビデオが公開できないという問題があるのは日本だけです。
上のビデオは、私が昨年夏に行ったハーバード大学でのセミナーです。講演直後にYouTubeに掲載されました。
これまでも講演ビデオの配信に力を入れてきた欧米の研究所は、コロナ時代になってウェブでの情報発信力をさらに高め、国際的ビジビリティを競っています。これに対し、日本の大学や研究所は、日本特有の著作権の扱いのため、バーチャル空間での国際競争に大きなハンディキャップを背負っています。
その一方で、コロナ時代には日本にとって有利な状況もあります。これまでのところ日本は欧米諸国に比べて感染症の流行抑制に成功しているので、海外の優秀な研究者からも「日本に行って研究がしたい」という声を聞きました。「これは海外から才能のある研究者を呼び寄せるチャンスだ」と思い、緊急に Kavli IPMU でいくつかのプログラムを立ち上げました。
たとえば海外には次の職が決まっているのに渡航制限などのために職に就けずに宙ぶらりんになっている優秀な大学院生やポスドクがたくさんいます。そこで、そのような人たちを次の職に就けるまで短期で雇用するプログラムを始め、「ポスドク・アンパッサン」と名付けました。アンパッサンというのはチェスの用語で、通過途中の歩兵を捕獲することを意味します。このプログラムのおかげで、以前にIPMUのオファーを断ったような優秀な人も「捕獲」することができました。
バーチャル空間の活用は、学術交流だけではなく、一般社会へのアウトリーチにも有効であることがわかってきました。2020年春から行ってきた一般向けのバーチャル・イベントには毎回数百人から数千人の参加者があり、過半数の人が最後まで視聴してくださっています。
また北海道から沖縄まで日本全国からの参加者があります。これまでリアル空間で行ってきたイベントには東大キャンパスに来られる人しか参加できなかったのに対し、バーチャル空間では全国にアウトリーチできるので、地方と都市の情報格差の是正にも役立ちます。
「オンライン訪問には,感染症対策としての利点以外にも,同時に複数の場所にいる人々に会うことや,中山間地域など通常では訪問が難しい場所でも訪問できるという利点があることを実感いたしました。」
とおっしゃっていました。
さらに、参加者の構成を見ると、リアル空間でのイベントでは時間に余裕のある方々が多いのに対し、バーチャル空間では中高生や大学生が目立ちます。受験や部活で忙しい中高生でもオンラインで視聴できるイベントなら参加しやすいのだと思います。コロナ時代に明らかになったバーチャル・アウトリーチの利点は、コロナ後にも活用していきます。
ここまではバーチャル空間上の交流のよい点について書いてきました。しかし、学術交流にせよアウトリーチにせよ、そのすべてをウェブで代替できるわけではありません。私が国際会議に行く主たる目的は、講演をしたり聞いたりすることよりも、コーヒーブレークや会食などのインフォーマルな場での交流です。そのような場で、久しぶりに会った研究者に、ちょっとしたアイデアや、あえてメールで問い合わせるほどではない質問を投げかけると、思いがけない反応があって研究を進めるヒントが得られたり、新しい共同研究が始まったりすることがよくあります。
ウェブ会議はあらかじめ議題が決まっている時には効率的です。しかし、思いがけないブレークスルーや異分野を融合するような発見を促すには、もっと気軽に話し合える場が必要です。コロナ時代を機会としてバーチャル空間の様々な活用を試み、ポストコロナ社会に備えてリアルとバーチャルの空間を組み合わせた新しい研究所の姿を模索しています。
研究所の運営面での対応をご説明してきましたが、Kavli IPMU の研究で新型コロナウイルス対策に直接役に立つものはないのかというご質問もあると思います。私たちが行っているのは基礎研究なので、現実社会の問題にすぐに役に立つとは限りません。では、このような研究を社会が支援するのはなぜでしょうか。それについては、別な機会にお話ししようと思います。